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ヒゲグマ先生のもうひとつの世界 J2アビスパ福岡応援ページ

菊川凱夫物語


この物語は、現在Jリーグ2部に所属しております、アビスパ福岡の元総監督・菊川凱夫氏の実話です。私の長男・優(現在20歳)が幼稚園の年長の時、 (株)「中央防犯が開きましたサッカースクール「ランカーフットボールクラブ」にお世話になりましたことをきっかけに、以来10数年の渡って、中央防犯 SC〜藤枝ブルックス〜福岡ブルックス〜アビスパ福岡を応援してきました私が、1995年5月、菊川氏の個人後援会「KICK OFF」からの依頼を受 け、書き始めたのもです。拙い文章ですが、宜しくお付き合い下さいませ。
なお、この物語は、アット・ニフティのサッカーフォーラム、FSJL MES18アビスパ福岡会議室、#1234から始まる発言にも掲載致しました。(2000年4月、2002年10月3日一部修正)

 菊川凱夫アビスパ福岡テクニカルスーパーバイザー(1995年当時)は、1944年9月12日その昔、天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝大会をも開催 し、”サッカーの街”として全国にその名を轟かした静岡県藤枝市に、合名会社菊川商店の長男として産まれました。幼い頃、サッ カー観戦の好きな父・隆介氏は、家の近くにあり、過去数種の全国大会で優勝9回、準優勝3回を果たした古豪・藤枝東高校サッカー部の練習や試合を見に、子 守がてら凱夫少年を連れ、毎日のように藤枝東高校に足を運んでおりました。そんな父とは反対に、なかなかサッカーに興味を示さなかった凱夫少年でしたが、 ある日、手を骨折しながらも泥まみれになりながら、ボールを追っている東高校の選手の1人の姿に感動し、サッカーを始めたのです。それが藤枝中学1年生の ときでした。この時から天性の才能は芽吹きはじめ、FWからFBまで全てのポジションを難なくこなし、将来の日本代表の片鱗をも表し始めました。そして、 当時から進学校としても名高い、憧れの藤枝東高校に、1年浪人してまでも挑戦、61年に入学を果たしました。藤枝東高校では、2年と3年時にあの藤色のユ ニホームで、全国高校サッカー選手権大会を制覇し、東高黄金時代の一翼を担い、早くも全日本代表の呼び声がちらほら囁かれるようになりました。 そうした 活躍から当然のごとく藤枝東高校3年生の後半になりますと、サッカーでは名高い各大学が菊川氏獲得に乗り出して来ました。当時大学サッカーでは中央大学が 有名で、全日本代表選手の多くが中央大学出身で、藤枝東高1年先輩の元五輪代表、元全日本監督の山口芳忠氏も中央大学に進学しており、当然のごとく菊さん の元にも中央大学からの誘いが来ておりました。しかしながら、その頃、早くから菊さんの才能に注目しておりました明治大学のOB・O氏が毎日のごとく菊さ んの元にはせ参じ、午前中は菊さんのお父さんが経営する会社に、午後は藤枝東高校のサッカー部の練習見学にと、熱心に通い続けて来られました。そして、あ る時遂にそのO氏に、同輩の神戸氏と共に食事に誘われ、”天丼”をご馳走になりながら、強く明治大学入りを要請されたとのことで す。「ボクは、その”天丼”に釣られたんですよ。」と菊さん。そんなことがあった後のある日、いよいよ藤枝東高校サッカー部後援 会役員で、同校の大先輩の某氏に呼ばれ、「アジアユース大会に日本代表で出たいんだったら、中央大学に行け。」と言われ、即座に「私は、明治大学に行きま す!」と断ってしまった菊さん。「ボクあ、確かにアジアユースに日本代表として出たかったですよ。当時は我々の夢でしたからね。しかし、だからと言って中 央大学に行きたくはなかったんですよ。自分の信念としてね。(日本代表は)自分の手で勝ち取りたかったんですよ。」結果的には、”天丼に目が くらみ”、大先輩の進言までも断ってしまった菊さんの人間性のにじみ出た話ですね。 明治大学では、先輩に杉山隆一・ジュビロ磐田顧問(元同 スーパーバイザー)がおり、以後菊川氏にとって、”生涯の師”を得たのでした。このお二人の活躍で、明治大学は中央大学を破り、 大学リーグ戦で優勝を果たしました。そして、菊川氏は68年、杉山氏のいる三菱重工(現浦和レッドダイヤモンズ)に入社、あくまでもハードで、しかしハー トのある名サイドバックとしてファンを魅了しました。69年と73年に日本リーグ優勝、71年と73年には天皇杯をも制覇したのです。さらに、同時に杉山 氏らと全日本代表としても活躍し、アジア大会、ムルデカ大会など数々の国際試合でもその存在を見せつけました。 しかしこの間、華やかな活躍の裏で膝に過 度の負担を強いり、このまま選手生活を続ければ、好きなサッカーどころか、スポーツすらできなくなると診断され、30歳を前にしてやむなく現役引退を決意 したのでした。
 父・隆介氏と、30歳になったら家業を継ぐとの約束もあり、その歳の1975年、菊川氏は7年間お世話になった三菱重工を退社し、故郷・藤枝に戻って来 たのです。当時、日本リーグ(JSL)を引退した選手は、以後1年間は下位リーグの試合に出場できないという規則があり、菊川氏はその年、家業引継の勉強 方々、サッカーに明け暮れた生活から一転し、産まれて始めてのんびりと自分自身を見つめ、自分を育ててくれた藤枝のサッカーを眺めることができたのです。  翌76年、試合出場停止が解けるや否や、菊川氏は膝に爆弾を抱えながらも、やはりサッカーの夢は捨てきれず、当時、静岡県社会人サッカーリーグ1部に所 属していた名門「志太クラブ」に入部、以後8年間、同クラブに在籍したのです。1947年に県立志太中学校(現藤枝東高校)の生徒及び卒業生で結成された 同クラブは、京都紫郊クラブ(のち京都紫光クラブ、現京都パープルサンガ)に継ぐ伝統を持つクラブで、同年第2回石川県国体参加を皮切りに、幾多の国体、 あるいは天皇杯全日本大会や、全日本実業団大会に出場し、輝かしい実績を残していたのです。特に57年に藤枝市で行われた第12回静岡県国体では、藤枝東 高校と共にダブル優勝を果たし、「サッカーの街・藤枝」の名を全国に轟かす、その一翼を担ったのです。80年には同クラブのプレーニングマネジャーを引き 受けた菊川氏は、輝かしい歴史を持ちながらも資金難あえぐ同クラブの現状を目の当たりにし、加えて74年正月の全国高校選手権大会準優勝を最後に、久しく 新聞にその名を見せない藤枝東高校の低迷を見続けながら、現在ある自分を育ててくれたこの藤枝のサッカーを何とかしたいと、煩悶する日々が始まったので す。
 そうした矢先、82年に社員の同好会として創部した「中央防犯サッカー部」が翌83年には、加盟したばかりの静岡県社会人サッカーリーグ中西部3部で、 8勝1敗でいきなり優勝を果たしてしまったのです。この優勝には富澤静雄・樺央防犯社長(1995年当時アビスパ福岡会長)は大変な喜びようで、この 時、優勝を果たした選手達を前にして、「よくやってくれた。おめでとう!この御祝いに君たちになにか一つあげたいが、何がほしい?」と聞いたのです。いき なりの社長のその言葉に、暫し躊躇した選手達は、お互いの顔を見合わせた後、なんと口を揃えて「監督です!」と、きっぱり答えたそうなんです。この余りに 純粋な選手達の答えに打たれた富澤社長は、「そうか、分かった。それじゃ、おまえ達に日本で1番の監督を連れてきてやる。」と約束したのです。こうして菊 川凱夫・中央防犯サッカー部監督が誕生したのです。
 藤枝東高校の先輩・T氏を通じて監督就任の要請を受けた菊川氏は、早速中央防犯サッカー部の練習を見学。わずか14名の部員、しかも中学・高校、あるい は大学のいずれかでサッカーを経験した者は、そのうちわずかに3人。この部員達が夜勤勤務のガードマンをしながら、たとえ下位リーグの中西部3部とはい え、優勝を果たしたその未知数部分に魅力を感じた菊川氏は、「できれば、静岡県リーグ1部まで上げてくれ。」と言う富澤社長に、「いや、その上の東海リー グまで持って行きます!」と、監督就任を受諾。菊川氏と富澤社長はこの時、この中央防犯サッカー部を藤枝市で1番のチームに育て上げ、その上はこの藤枝市 に譲渡、クラブチームとしてサッカーをリタイアーした選手達を指導者として育てながら、少年達のサッカーを指導させていく、そんな夢をも約束していたので す。二人は既に日本のサッカーはもう企業チームの段階を越え、地域に根ざしたクラブチームを目指すべきとの考えを抱いていたのです。1984年春のことで した。
 この菊川氏の中央防犯サッカー部監督就任に驚いたのは、当のサッカー部員達で、自分たちのささやかな願いが、よもや元全日本代表で、しかもあの釜本邦茂 参議院議員(元G大阪監督)、杉山隆一・ジュビロ磐田顧問と共に、当時の日本サッカー界で大活躍された菊川氏の監督就任の形で実現するとは、思いもよらな かったようですね。勿論、このニュースは当時の静岡新聞にも大きく取り上げられました。
 監督を引き受けた菊川氏は、その部員の殆どが夜勤勤務という状態の中、週3回の夜の練習に如何に来させるかという意識改革から始める始末。そして、サッ カーは大好きながらも、その世界では殆ど無名なこの部員達を、”上手なプレーヤー”でなくして”いいプレーヤー ”に育てるべく、1人1人とサッカーをトコトン語り合いながら、自分で考えるサッカーを徹底指導。そうした中、中央防犯サッカー部は84年、 静岡県社会人サッカーリーグ中西部2部を8勝1分0敗ではたまた優勝で飾り、翌85年、同中西部1部9勝全勝優勝、翌86年静岡県社会人サッカーリーグ2 部15勝全勝優勝、そして遂に、翌87年には、監督就任の時に要請された静岡県社会人サッカーリーグ1部をも12勝3分0敗で優勝、監督自ら約束した「東 海リーグ入り」を最短で達成し、併せて4年連続無敗記録をも達成してしまったのであります。
 こうして東海社会人サッカーリーグ入りを最短の5年で達成しましたことは勿論、選手達の日々のひたむきな練習の努力の賜物であり、さらには、菊川氏のそ うした選手達への、将来を見据えた”熱い”指導力によるものでもありました。こと、この年の3月、静岡学園高校を卒業し入部した FW遠藤孝弘選手(18 歳)や、日本リーグのフジタ(現湘南ベルマーレ)に10年間在籍し、6月に加入したMF後藤元昭選手(当時33歳)らの活躍は、チームをさらに上に向けさ せたのはないでしょうか。88年2月、東海リーグの入れ替え戦である、2日間に渡る東海社会人サッカートーナメント大会では、中央防犯SCはその力を遺憾 なく発揮。2試合で計7得点をたたき出し(うち5得点が遠藤選手)、しかも無失点に押さえた、完璧な昇格でした。 そこで、当初の目標であった「東海社会 人サッカーリーグ入り」を果たした菊川監督と富澤中央防犯社長は、次なる目標を設定したのです。そう、勿論それは、夢の「日本リーグ入り」だったのです。 しかしながら、そのためには僅かに16名の部員では長く、しかもレベルの高いリーグは戦い通すことは難しく、また、週に3日の練習では、技術向上はおろ か、体力すら付かない。かといって、選手はみな、勿論仕事を持ち、しかも、殆どが当直はおろか、24時間勤務もたびたびあるガードマンというアマチュアな のです。そこで、両氏は、初参入の東海社会人サッカーリーグ開幕前に、本格的な選手補強に取り組んだのです。結果、元読売−全日空(元横浜フリューゲル スー現横浜Fマリノス)所属のMFジャイール選手(当時28歳、ブラジル出身、現京都サンガ通訳)と、日産(現横浜Fマリノス)所属のFW渡辺康之選手 (当時20歳)の日本リーグ経験者2名を含む、10名が新加入。さらには、この年のリーグ途中、ファイサル選手(元読売)や青木正英選手(元トヨタ)、ア ギナルド選手(ブラジル)を獲得し、菊川氏は中央防犯SCを「オープン攻撃を主体とする攻めのサッカーが身上」(静岡新聞)のチームに育てていったので す。勿論、彼らもみな、他の選手同様、中央防犯(あるいは関連会社)において仕事を持ちながら、リーグ戦を戦い抜いていったのです。
 当時の菊川監督を振り返り、「キクさんは、人間としてすばらしい人、そして、ものすごい人だと、今でも思っていますよ。」と、私に熱っぽく語ってくれま したジャイール正岡氏(92年日本人帰化)。氏曰く、前の年現役を引退し、当時は全日空と東京ガスのサッカースクールでサッカーをコーチしていたところ、 ある方を通じて中央防犯SCを紹介され、その年(88年)の3月、中央防犯対ヤマハクラブ(東海リーグ所属)の練習試合に参加し、初めて中央防犯SCの選 手達と顔を合わせた時のことです。試合途中、捻挫してしまったジャイール氏を担ぎ、急いで車で監督の家まで連れて行って、湿布をしてくれた上に、丁寧に テーピングまでしてくれた菊川監督。ブラジルでは、1人の選手をこんなにまで心配してくれる監督はひとりとしておらず、そのことが強く印象に残り、その 上、ヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)の2軍であるヤマハクラブに、3:1で勝った中央防犯SCに、当時関東リーグだった全日空を日本リーグ2部に押し上げ た氏の血が騒いだのか、ジャイール氏は早速、中央防犯SC入りを決意したとのことでした。 ジャイール氏も曰く、一つ一つのプレーを選手とお互いに納得す るまで話し合いながら指導し、監督には不向きなほど人情に厚く、人間味のある監督ゆえに、選手全員が苦しいリーグ戦も戦って来れたのでしょうか。初参入の 東海社会人サッカーリーグも第12節には、10勝1敗1分けで遂に首位に立ってまったのです。そして、その最終節、この試合で勝つか引き分けるかで優勝が 決まる対西濃運輸(現在廃部)戦で、中央防犯SCは前半25分、西濃運輸にあっさりと先制されるも、5分後、ジャイールのFKで追いつく。が、前半42分 にはクリアーしたボールが突っ込んで来た西濃選手に腹部に当たり、勝ち越し点を与えてしまったのです。さらに、後半開始早々、青木選手がこの試合2度目の 警告を受け、退場。「普通なら途中であきらめている試合」に、「選手は精神的に粘っこさが着いてき」(菊川監督)たのか、中央防犯SCはこれにも動ぜず、 チャンスをじっと待ったのです。そして、後半32分、ドリブルで西濃ゴール前に詰めたアギナルド選手が、西濃DFに押されて転倒。同選手がこのPKを落ち 着いて決め、待望の同点に追いついたのでした。そして、これまた創部6年目にして最短で、中央防犯SCは東海社会人サッカーリーグをも制覇してしまったの です。菊川氏も驚くほどの勢いでした。
 これまで「挫折を知らなかった」(日刊スポーツ)中央防犯SCは、翌89年3月、夢の日本リーグ入りを目指して地元藤枝市民グランドで行われた全国地域 リーグ決勝大会予選リーグで1勝1分け、得失点差で僅かに及ばず、決勝リーグ進出ならず。この年の東海社会人サッカーリーグも、9勝2分1敗で準優勝に終 わり、中央防犯SCにとって初めての”足踏み”となったのです。しかし、毎年何らかのタイトルと勝ち取っていた中央防犯SCは、 この年に行われた第25回全国社会人サッカー選手権大会では、見事に初出場、初優勝を成し遂げ、菊川監督をして「このチームは日本一仕事が過酷なナマ。そ れを乗り切って勝ったんだ。すばらしい。」(静岡新聞)と言わしめたのです。
 この2年間で新加入選手は、DFジアス選手(元ヤンマー、ブラジル)とFW川上選手(元清水エスパルス・Lリーグ鈴与清水コーチ、アルゼンチン育ち)く らいで、レギュラーの平均年齢は29歳に近くになった中央防犯SCは、翌90年は、東海社会人サッカーリーグを9勝2分5敗で準優勝で終わるも、2度目の 日本リーグ入りを目指す全国地域リーグ決勝大会への出場権を得、第26回全国社会人サッカー選手権大会では、史上初の2年連続優勝を成し遂げたのです。創 部以来はじめての精彩を欠いたリーグ戦を振り返り、確かに衰えたチーム力を経験でカバーし、「2度目の正直」(日刊スポーツ)にチャレンジする中央防犯 SCを率いる菊川監督は、翌91年1月、創部以来初めて6日間の合宿を行い、選手達に悲願の日本リーグ入りに賭ける意気込みを示し、選手達の執念をも引き 出そうとしたのでした。
 実は、菊川監督や選手達以上に熱く、そして強い思いで、日本リーグ入りへの「2度目の正直」に賭けた男がいたのです。そう、それは勿論のこと、富澤中央 防犯社長だったのです。氏は、選手の殆どが「24時間(休憩4h)勤務→当直(17:30〜8:30)→当直→休日」とい う勤務体系の中、史上初の全国社会人サッカー選手権大会連続優勝を成し遂げ、2度目の日本リーグ入りを目指す全国地域リーグ決勝大会の出場権を得た選手達 に、”菊川氏の監督就任”に続いての”ビッグなプレゼント”を心密かに準備していたのです。すなわち、 富澤社長は、選手達が社長自ら菊川監督に示した「静岡県リーグ1部優勝」を果たしてくれた87年の暮れのこと、専用練習施設もなく、藤枝東高校など近くの 中高校グランドを借りながら夜間練習をしてきた選手達のために、なんとサッカー専用グランドの建設を計画したのです。そして、翌88年には藤枝市宮原の調 整区域に土地を取得し、開発許可を得て、89年春から造成・建設工事に着手。遂に、90年8月に、総面積約二万平方メートル、メイン、サブコート各1面、 スタンド、夜間照明、散水器、放送、駐車場も完備した「中央防犯SC宮原グランド」が完成したのです。選手は勿論、この”ビッグなプレゼント ”には大変な喜びで、菊川氏の監督就任に続く”2つ目の驚き”でもありました。選手達はこの日、自分たちで勝ち得た グランドに立ち、菊川監督と共に、「次は日本リーグ入りをして、ローン(芝)コートにしたい。」(スポニチ紙)と誓ったのです。
 そうして挑んだ91年3月1日、全国地域リーグ決勝大会予選リーグ初日、対NTT四国戦。「前半24分の大塚覚選手(当時30歳)のシュートで先制した が、後半開始早々、DF陣の一瞬のすきを突かれ追いつかれ」(日刊スポーツ紙)、「中央防犯SCは終始押し気味に進めたが、決定打を欠き」(同紙)、1対 1の引き分け。しかし、翌2日目は、この引き分けに選手達が奮起し、遠藤選手2ゴールの活躍で3対1で京都府警を下し、ようやく決勝リーグ進出を果たした のです。そして、同月15日、愛知・刈谷港町グランドで始まった、4チーム総当たり戦の同大会決勝リーグ。初日、中央防犯SCは強風にも悩まされ、またし ても緊張感からか決定打を欠き、大体大蹴球団に0対0の引き分け。大事な初戦でながら、4チーム中最も組みやすいと見られていた相手だけに、この引き分け は敗戦に等しかったのです。そして、翌2日目、「奇跡だ。雨に沈んでいた中央防犯ベンチが、起死回生の一発に沸き返った」と日刊スポーツ紙を驚かせた、対 東京ガス戦。前日はなんと4チームとも0対0の引き分けで、日本リーグ昇格のためには、この日は絶対負ける訳にはいかない中央防犯SCは、前半「怒涛の攻 撃を見せる」(同紙)も最後に決めきれず、共に無得点。「風下に回った後半は劣勢に立たされ」(同紙)た中央防犯SCは、「再三のピンチを乗り切ったが、 32分についに先制ゴールを許し」(同紙)てしまったのです。そして、点取り屋のアギナウド選手が左足捻挫でリタイアした上、ベテラン後藤選手も後半早 々、持病の左足太股肉離れが再発し、戦線離脱。さらには、先制された直後、FW川上選手がゴール前の競り合いから額をバッティングし、包帯を巻きながら突 破を試みる状態に。「後藤が抜けた時に不安が走ったが、あの状態でよくあそこまで持ったよ。」(同紙)と、菊川監督も脱帽。そう、そんな極限の中、「後半 39分、右45度からジャイール選手のFKがゴール前混戦から左に流れたところを、大塚選手がキープ。ゴールラインぎりぎりまでドリブルで持ち込んでフワ リと浮かすと」、「ベテラン青木正英選手(当時31=大分工)が奇跡的なヘディングシュートを決めて、1対1に追いつ」(共に同紙)き、連日の引き分けで まさに首の皮1枚で、最終・西濃運輸戦に待望の日本リーグ入りの望みを繋いだのです。
 そして、その最終日、前の試合で東京ガス(現FC東京)が3対2で大体大蹴球団を下し、勝ち点4で先に日本リーグ入りを決め、2分け勝ち点2の中央防犯 SCは、1勝1分け勝ち点3の西濃運輸に勝たなければ、悲願の日本リーグ2部に昇格できないという状況に追い込まれたのです。ところが、前日の試合で肉離 れを起こしたMF後藤選手はこの試合も出場できず、司令塔・ジャイール選手は警告が重なり出場停止。加えて、前日の殊勲者青木選手と川上、石上(現中央防 犯ACM藤枝FC監督)両選手が、風邪による高熱を注射で押さえての出場という状況に、アギナウド選手も捻挫の足をテーピングで固定して出場するという、 まさに満身創痍。しかも、これまで引き分けこそあれ、勝ったことのなかった西濃運輸に、前半4分、ベテランMF大塚選手がトラの子の点を叩き出したので す。「『西濃はヘディングがあまり強くない。風邪が強いので、バックの裏に上げれば決められる。』そんな信念を、DF・佐々が左サイドから絶妙なロビンン グで好アシスト。(それを大塚選手が)ペナルティエリア右隅から、ノートラップでゴール右隅に決めた」(日刊スポーツ紙)のです。「勝つしかない、それだ けを考えてやった。後半は本当に長かった。」(同紙)という、まさに主将・若林選手の言葉通り、後半風下に立った中央防犯SCは、「ジアスが、石上が、若 林が、佐々が、そして、FW遠藤や青木までが死力を振り絞ってバックラインを支え」(同紙)、西濃運輸の攻撃をよく防ぎ切り、タイムアップの笛に、イレブ ン全員が涙を流して歓喜を爆発させたのです。「ありがとう。みんな、本当によくやってくれた。ただただ、ありがとう、と言いたい・・・」と、声を上げて男 泣きした6年目の菊川監督。そして、創部10年目の快挙に、「今日から一週間、みんな、何を食べても、いくら飲んでも、全て勘定はこの私が払う。」とまで 選手達を讃えた富澤社長。共に涙にむせびながら、抱き合い、選手達と共に、悲願達成を喜び合うその姿に、応援に駆けつけた私達もつい貰い涙したものです。
 さて、そうして勝ち取った91年第20回日本リーグ2部開幕を前に、中央防犯SCは、清水FC(現清水エスパルス)入りした川上選手とブラジルに帰国し たアギナウド選手に代わり、李選手(韓国)や石川(前全日空、元中央防犯ACM藤枝FC)、津野(前本田、元福岡ブルックスー元中央防犯ACM藤枝FC) 各選手らを獲得し、迎えた開幕戦の対甲府クラブ(現J2ヴァンフォーレ甲府)戦。先制点を許すも後半盛り返し、遠藤選手の連続2得点などで3対1と逆転、 初戦、初勝利を納めるかと思われたのですが、残り5分で2点を許し、惜しくも引き分けに終わったのです。この試合、数年前からチームのマネージャーを手 伝っていた”小菊ちゃん”こと、菊川監督の息子さんと菊川監督が3対2と追い込まれてきたチーム状態に興奮し、ベンチでなんと ”親子喧嘩”を始め、後藤コーチに制せられる場面もあったのです。しかし、初参入の日本リーグ2部も、第3節の対田辺製薬戦で2 対1で初白星を挙げ、第5節対京都紫光クラブ(現京都パープルサンガ)戦で4対1と勝利し、第8節(焼津市陸上競技場)には中央防犯SCは、あのジーコ選 手が加入した住友金属(現鹿島アントラーズ)に、ジャイール選手のPKで先制し、六千もの観衆を湧かせたものの、ジーコ選手のヘッドシュートなどで1対3 と逆転され、結果、7勝6分17敗で16チーム中12位の成績で終わったのです。
 Jリーグ誕生で改組された翌92年第1回JFL2部(J2)に向け、中央防犯SCはこれまでチームを引っ張ってきたMFジャイール選手の京都紫光クラブ 移籍で、全日空からピッコリ(前アビスパ福岡監督)、ホルヘ、森重各選手を獲得。さらに、李選手に代わり韓国から朴選手を得、菊川監督と富澤社長は、大満 足のこの戦力補強と前年のチームの戦績分析に、密かに記念のJ2初代チャンピオンをもくろんだのでした。そのため、菊川監督はこのリーグ優勝の目標を選手 達にはっきりと示すためにも、試合中、特に緩慢なプレーには厳しく指導。常に勝利に拘った指揮を執ったのです。それが時に、DF石上選手と試合中に、動き のことでけんか腰に言い合ったり。また、ある試合では勢い、PKを取られた主審の判定に執拗に抗議し、退場を宣告され、その上試合後、公式記録に署名を求 められた際、あのPKは認めない旨の一言を書き、署名。更に、帰ろうとしてタクシーを待っている間に、同じくタクシーに乗りに来たその主審に、再び抗議 し、この3の件がその後のJ1運営委員会で取り上げられ、各2試合計6試合の監督のベンチ入り禁止処分を受ける程の、”悪しき” 熱血漢振りを示したのです。また、ある時は、試合中、自らの中央防犯SCの選手に危険なバックチャージを掛け、警告を受けた相手選手に向かって、「てめ えー、うちの子に何をするんだ!」と怒り、たまたま手にしていた小指の頭ほどの小石をほうり投げたところ、なんとそれがその選手の体に当たり、これまた退 場処分。「いやはや、これらばかりは監督失格ものでしたよ。」と反省する菊川監督。しかし、「監督自ら真剣勝負を挑めば、自ずと選手達も・・・」と言う菊 川監督の気持ちが選手達に伝わったのか、中央防犯SCは開幕戦は落としたものの、第2節から3連勝をするなど、前年とはうって変わって快進撃を続け、遂に 第11節には京都紫光クラブを4対2で破り首位に立ち、第17節今季最後のホーム試合・対コスモ石油(元JFLコスモ四日市、廃部)戦で4対1で勝利し、 首位を守り続け、最終節対西濃運輸戦(各務原市スポーツ広場)を4対0と快勝し、12勝2分け4敗、勝ち点僅か1差で京都紫光クラブを押さえて、優勝。記 念すべきJ2初代チャンピオンの座に就いたのです。
(続く)

1995年5月執筆2000年2月・2002月10月3日一部修正
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中央防犯SC〜藤枝ブルックス〜福岡ブルックス〜アビスパ福岡 栄光の歴史(禁複製)

1982年 中央防犯サッカー部創部

1983年 静岡県社会人サッカー中西リーグ3部8勝1敗0分 優勝 56得点 16失点
 第1節 対 藤娘6対1第2節 対 中外製薬10対1第3節 対 科研製薬5対1
 第4節 対 碌々産業 13対2第5節 対 藤枝警察学校 3対1第6節 対 東海パルプ 11対0
 第7節 対 島田理化3対1第7節 対 ゴルゴ2対0第9節 対 津村順天堂 3対9

1984年 菊川凱夫氏を監督に迎える。
静岡県社会人サッカー中西リーグ2部8勝0敗1分優勝59得点(累積得点115) 9失点(累積失点25)
第1節 対 FCジャパン  2対1 第2節 対 焼津信用金庫 2対2第3節 対 科研製薬5対1
第4節 対 日清紡  3対1 第5節 対 修善寺FC6対2第6節 対 豊友産業13対0
第7節 対  ヒューストン10対0  第7節 対 イレブン 6対1第9節 対 島商クラブ  12対1

1985年
静岡県社会人サッカー中西リーグ1部9勝0敗0分優勝37得点(累積得点152) 6失点(累積失点31)
第1節 対 日清紡  2対1 第2節 対 雑草クラブ2対1第3節 対 自衛隊 6対1
第4節 対 富士フィルム  2対1 第5節 対 遠州コスモス5対1第6節 対 FCグリーン 3対0
第7節 対 焼津信用金庫 5対1  第7節 対 東海清水 10対0第9節 対 焼津クラブ   2対0

1986年
静岡県社会人サッカーリーグ2部 15勝0敗0分 優勝 69得点(累積得点221) 5失点(累積失点36)
第1位 中央防犯 15勝0敗0分 第2位 富士通沼津14勝1敗0分第3位 バンヤンクラブ 13勝2敗0分
第4位 日本リーバ 9勝5敗1分 第5位 津村順天堂 8勝5敗2分第6位 東芝富 6勝5敗4分
第7位 旭化成富士5勝7敗3分 第8位 鈴木自動車5勝7敗3分 第9位 プレイボーイズFC5勝7敗3分
第10位八坂ユース 5勝8敗2分 第11位静岡クラブ 7勝5敗3分 第12位自衛隊富士学校5勝9敗1分
第13位蒲原クラブ 5勝9敗1分 第14位日本楽器 3勝11敗1分 第15位スター精密 1勝11敗3分
*静岡クラブは1試合棄権のため、順位降格。

1987年
静岡県社会人サッカーリーグ1部 12勝0敗3分 優勝 41得点(累積得点262) 9失点(累積失点45)
第1節 対本田技研浜松  1対1 第2節 対 沼津香陵クラブ 3対0第3節 対 清商OBクラブ1対1
第4節 対矢崎計器島田 4対3  第5節 対 FCバテルズ2対0第6節 対 浜友会FC 2対0
第7節 対NTT静岡 9対1 第7節 対 トヨタ東富士2対0第9節 対 志太クラブ2対0
第10節対藤北クラブ 0対0 第11節対 清工クラブ 1対0第12節対 榛南クラブ5対1
第13節対バンヤンクラブ 3対1

1988年
東海社会人サッカーリーグ13勝1敗3分 優勝 41得点(累積得点303)12失点(累積失点57)
第1位 中央防犯13勝1敗3分 第2位 西濃運輸11勝1敗5分 第3位ジャトコ12勝4敗1分
第4位 マルヤス工業 8勝9敗1分 第5位 豊田工機7勝8敗2分 第6位芙蓉クラブ 6勝8敗3分
第7位 名古屋クラブ 7勝6敗5分 第8位 やまき屋クラブ8勝8敗2分 第9位ヤマハクラブ6勝8敗4分
第10位三井ジュポン 5勝8敗5分第11位 清水クラブ 6勝11敗1分 第12位静岡ガス3勝10敗5分
 第13位 本田浜松 3勝13敗2分 *上位チームと下位チームでは試合数が異なります。

1988年
第68回天皇杯全日本サッカー選手権大会本大会出場第1回戦対古河電工0対1
累積得点303 累積失点58

1989年
東海社会人サッカーリーグ 11勝2敗4分 準優勝 40得点(累積得点343) 12失点(累積失点70)
(「戦績表」工事中。暫くお待ち下さい。)

1989年 第25回全国社会人サッカー選手権大会 優勝 8得点(累積得点351)1失点(累積失点71)
(戦績表略)

1990年
東海社会人サッカーリーグ7勝3敗1分 準優勝 22得点(累積得点373) 12失点(累積失点83)
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1990年 第26回全国社会人サッカー選手権大会 優勝15得点(累積得点388)3失点(累積失点86)
(戦績表略)

1991年 悲願の日本リーグ2部昇格
第20回日本サッカーリーグ2部 7勝17敗6分12位 33得点(累積得点421)52失点(累積失点138)
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1992年
第1回ジャパンフットボールリーグ2部12勝4敗2分優勝46得点(累積得点467)21失点(累積失点159)
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1992年 「中央防犯ACM藤枝FC」と改称
第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会本大会出場
 1回戦対東芝6対5 2回戦対清水エスパルス1対47得点(累積得点474)9失点(累積失点168)

1993年 チーム名に愛称として「藤枝ブルックス」を冠する。
第2回ジャパンフットボールリーグJ1 6勝12敗 9位 25得点(累積得点499)40失点(累積失点208)
(「戦績表」工事中。暫くお待ち下さい。)

1994年
第3回ジャパンフットボールリーグ 24勝6敗 3位 61得点(累積得点560)32失点(累積失点240)
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1994年
第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会本大会出場1回戦 対ヴェルディ川崎 1対4
1得点(累積得点561)4失点(累積失点244)

1995年 本拠地を福岡市に移転、「福岡ブルックス」と改称。
第4回ジャパンフットボールリーグ24勝6敗優勝・J昇格
83得点(累積得点644) 25失点(累積失点269)
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取材協力:(株)中央防犯、福岡ブルックス(株)  両社に対しまして厚く御礼申し上げます。

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ヒゲグマこと、山下泰孝の熱き思い
中央防犯SC〜藤枝ブルックス〜アビスパ福岡を追いかけて

                                    前書き

 もう12年になります。ただただサッカー好きのこの私は、長男を当時発足したばかりの、今はなきブルックスサッカースクールの前身・ランカーフットボー ルクラブに入校させて頂きましたことをきっかけに、中央防犯SC、藤枝ブルックス、福岡ブルックス、そして、アビスパ福岡とチームが変遷する中、本当に長 い間様々な形でチームの皆様とお付き合いさせて頂いております。それまでチームの試合の殆どを観戦してきました私も、残念ながら95年のチームの福岡移転 からは本業の忙しさも加わり、なかなか試合観戦に出向けず、パソコン通信・@ニフティでのチームの情報伝達を中心に、年数回の「theアビスパ」の発行 (昨年99年は多忙により発行はできませんでしたが)という形でチームの応援をさせておりまます。そんな折、本年2000年3月、経営する静岡オープンス クールグループでホームページを立ち上げましたことから、本ホームページに「J1アビスパ福岡応援ページ」を設けさせて頂き、私、ヒゲグマこと、山下泰孝 の、アビスパ福岡に寄せる熱き思いを語らせて頂きたいと思っております。宜しくお願い致します。

 まずは、これまで永きに渡り、中央防犯SC、藤枝ブルックスとチームを支え、プロ化、本拠地移転という苦渋の決断を経て、福岡ブルックスとしてJ昇格を 果たされました、富澤静雄・元アビスパ福岡会長(現株式会社中央防犯社長) 、並びに、この間無名に近い選手達を、その能力を最大限に伸ばしながら、時に は鬼の如く選手を叱咤し、あるいは、母親の如く共に涙を流しながらチームを率いて来られた、菊川凱夫・アビスパ福岡総監督に敬意を表し、これまでこのよう な私までも色々とお世話頂き、厚く御礼申し上げます。そして、両氏にはこの間、中には叶わぬ夢もありましたが、私達にそれこそ数多くの夢と感動を与えて下 さり、重ねて御礼申し上げます。

2000年6月5日(月)

                                    第1話

 82年社員の同好会から発足しました中央防犯サッカー部は、創部以来毎年静岡県内の各リーグを優勝、上位リーグ昇格を果たし、1年たりとも同じリーグで 戦うことなく快進撃を続け、5年目の1987年、遂に静岡県社会人サッカーリーグ第1部をも制覇し、最短で当時日本リーグ直下の東海リーグ昇格を果たしま した。これにはさすがの(株)中央防犯社長・富澤氏も驚かれたことと思います。そこで、氏はこうした社員の努力を社としても応援することを決め、次なる目 標に日本リーグ入りを掲げ、初めてチーム強化に取り組み、全日空サッカー部から、同部を日本リーグに押し上げたMFジャイール選手、沖縄生まれアルゼンチ ン育ちのFW川上選手を獲得、さらに、ブラジルからFWアギナウド、DFジアス(元ヤンマー)各選手を採用し、彼らをコーチに、翌1988年5月、これま で事業を展開させて頂いた地域への恩返しに、サッカーの街・藤枝の復活のため、今はなきブルックスサッカースクールの前身・ランカーフットボールクラブを 発足させました。
 新聞折り込みされた同クラブ生募集のチラシで、杉山隆一校長(現ジュビロ磐田スーパーバイザー)と菊川凱夫副校長(現アビスパ福岡総監督)が、当時小学 生から勝負を賭けた戦術サッカー指導に終始してきた藤枝のサッカーに対して、将来ワールドカップなどの国際舞台で活躍できる人材育成を目論み、長期的展望 にたった、年齢に応じた指導を全面に打ち出しておりました。確かに「サッカーの街・藤枝」を産んだ背景に、スポーツ少年団が果たしてきた役割は多大なもの がありました。当時、私の本業の学習塾業界でも然り、生活にゆとりができたか、あるいは、せめて子どもには勉強ができるようになってほしいと願ったのか、 世の親たちは子どもの英才教育に流れ始め、少しでも人よりも早く知識を身につければと、早くから子ども達を塾やお稽古事に通わせ始めておりました。ところ が、一方で、”燃え尽き症候群”の子ども達が現れ始め、小中学生の頃の華やかな活躍が、高校、社会人になるにつれいつの間にか消 え、国際舞台では日本のサッカーは全く通用しない。学習面でも同様に、小中学校時に受験テクニック修得に終始した生徒達は、高校の、しっかりした基礎力の 上に立った奥深い応用力を必要とする学習について来れなくなっていたのです。そうしたことから、私はこの募集チラシの文言には、失礼ながら同胞を得た感動 を覚え、早速当時年長の私の息子を入校させました次第です。勿論、当時私の息子がサッカーに向いていると考えた訳ではありません。体力がつき初め、遊び盛 りになり始めた息子に、いい環境を提供できると思ったのです。
 スクールが開校しますと、私もどんな指導をするのか大変興味がありまして、親ばかながら毎回スクールの練習を見学に行きました。するとどうでしょう、 ジャイールコーチや川上コーチらは子ども達の気持ちを見事に掴み、失敗しても叱るどころか、「今度は頑張ろうね。」と激励する。そして、様々なパターンの 練習を取り入れながら、飽きさせもせず常に楽しく、何よりもボールに親しむことを徹底指導する。私はただただ感心しておりました。
 そんな折、私の長男がコーチを自分の誕生会に招待してしまったと聞き、うちの子ばかりではと、スクールの事務局に相談致しまして、スクール生のご父兄に 練習場で希望者を募り、数家族の皆さん一緒に、コーチ達と昼食会を開いたのです。実は、私はこの時初めてコーチ達が中央防犯サッカー部の選手として、その 年の東海社会人サッカーリーグに初参入し、リーグ戦を戦っていることを知ったのです。

2000年6月6日(火)

                                    第2話

 その昼食会は、その年88年9月21日(秋分の日)のことでした。その頃我が家では、その年の暮れに産まれる子供のためにホームビデオを購入しましたこ とから、元来サッカー好きの私ゆえ、ビデオカメラ片手に中央防犯SCの試合の”追っかけ”が始まったのです。覚えております。長 男を連れ初めて見に行った試合が、清水市三保の東海大学グランドで行われた、東海社会人サッカーリーグ後期開幕戦対芙蓉クラブ戦でした。初参入した本リー グ前半戦を首位で折り返した中央防犯SCは、前半開始早々の1分、MF大塚選手がドリブルで持ち込みシュート、あっさり先制。これには息子も私も大喜び。 しかし、その後は押し気味に試合を進めるも、前半はこの1点止まり。さすがの菊川監督も、ハーフタイムにロッカールームから外に漏れ聞こえる程の大きな声 で、選手達に檄を飛ばしておりました。そして、後半半ば中央防犯SCは、左サイドからの大塚選手からのパスを胸でトラップした、移籍3試合目のFW青木選 手(元トヨタ、当時29歳)が振り向きざまにシュート、芙蓉クラブを突き放したのです。後で菊川監督から聞くに、青木選手はこの日九州・大分からご両親を 招待していたとのこと。勿論、監督はその青木選手をスターティングメンバーには入れず、前半戦を見ていたようですが、仮にも首位の中央防犯SCの、先制し てからの気迫のない試合運びに激怒し、ハーフタイムに選手達を叱咤したとのでした。後半も始まってもなかなか追加点が奪えない中央防犯SCに、監督は遂に 青木選手を投入。「やっぱりいくつになっても、親には活躍する自分の姿を見てほしいんですよね。それがまんまと当たって、ご両親の前で移籍後初ゴールを奪 うとは・・・」と語ってくれた監督。試合を終え、ロッカールームに引き上げていく途中息子を見つけ、頭をなでながら、「スグル、アリガトウネ。」と入って くれたジャイールコーチ。これにも息子は照れながら、大喜びでした。
 その後、静岡県内で行われた試合は家族総出で車で行ったのですが、確か名古屋での遠征の時だったと思います、身重の女房を家に残し、長男と長女を連れ車 で追いかけようと中央防犯本社に行くと、菊川監督が「どうぞ、バスにお乗り下さいよ。」と声を掛けて下さり、その後も何回か図々しくも選手達のバスに便乗 させて応援に行かせて頂いたこともありました。そんな時、警備会社ゆえに夜勤明けのままそのまま試合に臨むこともあった過酷な状況ながら、「サッカー王 国」静岡にあって、毎年各リーグを初優勝・上位リーグ昇格を成し遂げてきたとは思えない、選手達の底抜けに明るく一途な姿に、家族共々益々惹かれていった のです。そんなコーチ・選手達を少しでも多くの方々に応援して頂きたく、試合毎に試合の結果と次節の試合日程を書いたポスターを作り、それをコピーしては 私の運営する学習塾は勿論、ランカーフットボールクラブの練習グランドや、塾生の保護者の方が経営するスーパーにも貼って頂いたりしてきました。しかし、 サッカー好きの土地柄ながら、正月の全国高校サッカー選手権大会でも、現在もなお最多優勝回数を持つ藤枝東高校が、私が高校3年の昭和48年の準優勝を最 後に当時まで低迷を続け、菊川監督も三菱重工退社後所属していた、天皇杯優勝経験を持つ名門・志太クラブも、資金難と人材不足で下位リーグ降格の憂き目に あっており、やはり全国大会で活躍していなければ、藤枝市民は満足しないのでしょうか、同じ東海社会人リーグに所属していた藤枝市役所サッカー部との ”藤枝ダービー”では、当時唯一全国自治体サッカー大会で優勝を繰り返していたため、観客の大半が藤枝市役所サッカー部の応援に 回ってしまい、中央防犯SCの応援はランカーFCの数家族の皆さんと選手の家族の方々のみで、なかなか一緒に応援して頂く方々を増やすことができない状態 が数年続きました。

2000年6月7日(水)

                                    第3話

 そう、思い出します。東海リーグ時代の、当時は物静かな応援団の中にあって、ひときわ元気なおじさんがおりました。元中央防犯SC主将・若林由幸選手 (90年当時25歳・静岡工出、93年引退)のお義父さんです。娘さんが同選手とお付き合いを始めた高校時代から、試合のたびに娘さんと一緒に若林(旧姓 松浦)選手の応援に出かけていたとのこと。実に微笑ましいご家族です。そのお義父さん、東海リーグの試合の時も、しーんとした試合開始とハーフタイムには 必ず大きな声で、「ヨー、よっちゃん!がんばれよー!」と声援を送り、周りの応援団の人達を和ませてくれました。
 そんな娘婿の応援に熱心なこのお義父さん。90年10月の対ヤマハクラブ戦で、婿の若林選手が相手ヤマハクラブの選手にファウルされるや否や、あの現 ジュビロ磐田スタジアム(当時はバックスタンドのみでしたが)を駆け下りて、観客席最下段から、「てめえー、わしの大事な息子に何をするんだ!」とヤマハ 選手にかみつき、遠藤選手に制せられたことがありました。そのものすごい剣幕に当のヤマハ選手もびっくり、謝ることも忘れてしばらくあっけにとられており ました。
 この日は時折激しいにわか雨の降るあいにくの天気で、だだっ広いスタジアムに観客は、そのお義父さんと私の家族に、ランカーフットボールクラブ生のHさ んご家族の、たった10名。当時の東海社会人サッカーリーグの試合では、そんな状態が普通だったんですね。ちなみにこの日の試合は、MF大塚選手(当時 30歳・拓大出)の30mほどの超ロングシュートの先制点を含め、3対0でヤマハクラブを圧勝しております。

2000年6月13日(火)

                                    第4話

 88年暮れ、天皇杯本大会に初出場した中央防犯SCは、1回戦古河電工(現ジェフ市原)と対戦、善戦したものの、0対1で敗退。翌89年3月、前年の東 海リーグ優勝で手に入れた日本リーグ入りの兆戦権も、予選リーグで得失点差で2位に留まり決勝リーグに進めず、その快進撃も創部7年目にして初めて足踏み をしたのです。同年89年と90年の東海リーグでも、それぞれ9勝1敗2分と9勝5敗2分で連続準優勝に終わり、毎年優勝を重ねてきた中央防犯SCは、初 めてリーグ戦無冠に終わった。これに奮起したのか、中央防犯SCはその89年と90年の全国社会人サッカー選手権大会では史上初の連続優勝を果たし、その 底力を全国に見せ付けたのです。この時電話で連続優勝を確認し、深夜11時過ぎ藤枝駅に駆けつけたところ、20名程の中央防犯社員が出迎えに来ており、寂 しく凱旋した中央防犯SCの連覇を祝し、大声で万歳三唱。その後大きな荷物のジャイール選手と菊川監督を自宅までお送りした車の中で、目に涙を浮かべなが ら「ほんとによかった。彼らをここまま無冠に終わらせたくなかった。」と、菊川監督。ついこちらも目頭が熱くなったことを覚えています。
 この90年全国社会人サッカー選手権大会第2回戦対三菱化成黒崎戦で、「GK藪崎選手のアシスト」という珍しい記録が残っております。土砂降りの雨の中 前半2対0でリードした後半戦、さらに2得点追加した中央防犯SCのGK藪崎選手の蹴り上げたボールが、折からの強風に乗って相手ペナルティエリア内にポ トリ。飛び込んだFW青木選手が蹴り込み、5点目。その後も中央防犯SCは、力を抜くことなく得点を重ね、結局この試合、8対0で圧勝。「まさか自分がア シストするとは思いませんでしたよ。(当時話題のコロンビア・ナシオナル・メデジンGK)イギータもびっくりでしょうね。今度は、GK初ゴールでも。」と 笑って話してくれた藪崎選手でした。

2000年6月15日(木)

                                    第5話

 この頃になりますと、こうした中央防犯SCの活躍に、応援する方々も中央防犯やランカーフットボールクラブの関係者を中心に徐々に増え始めてきました。 吉田町のYさんは、練習試合にもうつもおばあちゃんも一緒にご家族全員で応援に来て下さったり。手作りの大旗を手にどこでも一緒に応援に行って頂いた岡部 町のHさん。ブラジルから来た選手の若い奥さんを自身の経営するお店で雇って頂きながら、二人を我が子のように面倒見て下さった藤枝市のMさん。当時から ご一緒に応援下さった方々はそれこそ熱心で、スクールのご父兄の皆さんと企画した応援バスツアーも、乗り心地の悪いスクールバスでも喜んで参加下さり、計 画の不手際で赤字を出してしまった時も、皆さんは進んでご援助下さり、本当に感謝しております。
 また、この頃試合会場に行くと必ず相手チームの大きな横断幕が目に入り、何にもない中央防犯SCの応援席が寂しく感jじ、スクールのご父兄のHさんに相 談しまして、中央防犯SCとスクール共有の横断幕を作ることにしました。と言いましても、資金のない私達ゆえ、その資金はスクールのご父兄を中心に、試合 会場に応援に来て頂いた皆様にも遠慮もなくカンパをお願いして集めました次第です。こうした皆様のご協力で5万円の制作費が集まり、同じく当時から中央防 犯SCを応援し下さっております、ご父兄のHさんの当時の勤め先・(株)小宮人形社長さんのご協力を頂きまして、ようやく「中央防犯・ランカーFC」と書 かれた横断幕が完成致しました。ところが、その横断幕に書かれた制作団体名・ランカーFC父母の会の「FC」の2文字が抜けてしまっていたことから、 (株)小宮人形の社長さんが染屋さんに「FC」を入れた幕をもう1枚作り直すように指示して下さり、5万円で2枚の横断幕ができてしまいました。儲かった ような、申し訳ないような複雑な気持ちでしたが、、その後の試合にはいつもこの2枚の横断幕が飾られるようになり、特にアウエー試合の数少ない応援にあっ ては、中央防犯SCの選手の皆さんには、少しの心の支えになって頂いたのではと思っております。

2000年7月7日(金)

                                    第6話

 試合のビデオは、ダビングして中央防犯SCにも差し上げ、選手の皆さんや菊川監督からも喜ばれ、時折試合後、選手達から飲み屋にも誘われ、サッカー談議 に朝方まで花を咲かせたこともありました。特に酒は体質からこれっぽっちも飲まれない菊川監督(どうも「菊川監督」ではかしこまっちゃいますので、これか らはいつも通り「菊さん」にさせて頂きます)とは、コーヒー一杯で4時間もサッカーのお話を聞かせて頂いたこともあります。そう、その時です。菊さんか ら、生き別れになった父親に、得意のサッカーで全国的に有名になって自分の姿を見せつけてやれと、我が子のように育ててきた某選手のことを初めて聞かされ ました。J昇格の3年前母親も亡くし天涯一人になったその彼は、J1年目の5月にJ初ゴールを決め、その菊さんの言葉を実現してしまったのです。これこそ 彼の努力の賜であり、菊さんの指導の結晶です。
 1つ1つのプレーについても、選手一人一人と納得いくまでとことん話し合いながら指導し、試合中中央防犯の選手にラフプレーをした相手選手に、「コノヤ ロー!うちの子に何をするんだ!」と足下にあった石を投げつけ、以後5試合ベンチ入り禁止処分を受けたことがあるほどに、中央防犯SCの選手達をかわい がって育ててきた菊さんだけに、2度目の挑戦で日本リーグ入りを果たした時は、菊さん、男涙でくしゃくしゃでした。そうです、今でもしっかり覚えておりま す。91年3月17日、寒風吹き荒れた愛知県刈谷市港町グランドでのことでした。引き分けでは2度目の挑戦もだめになり、悲願の日本リーグ入りのためには どうしても勝たなければならない、この日の地域リーグ決勝戦。主力のMFジャイールはイエローの累積で出場停止。おまけに、FW陣レギラー3人が風邪で高 熱を押しての出場。ところが、中央防犯SCはそんなビハインドを見事にはねのけ、それまで引き分けこそあれ、リーグ戦では一度も勝ったことのなかった宿 敵・西濃運輸に、前半4分の大塚覚氏(引退、現(株)中央防犯社員)の決勝ゴールを全員で守りきり、1対0で日本リーグ昇格を決めたのです。この時は、さ すがに菊さんと選手全員、お互いに抱き合い、グランドに崩れて伏してのうれし泣きでした。その彼らを両腕で抱えながら優勝を讃えた富澤・(株)中央防犯社 長の顔にも、うれし涙が夕日に光っておりました。応援に駆けつけた私達みんなも、感動の貰い泣きでした。この時を信じ、この時を誰よりも待ち続けていたの は、やはり富澤社長だったと思います。社長は、この日から1週間、これまでの選手達の労をねぎらい、選手達がどこの店でどんなに飲み食いをしてもすべて社 長がお金を出すとまでして選手達を讃えたのです。そんな富澤社長の男気に菊さんは惚れたと、後に私に語ってくれたことがあります。北海道生まれで単身でこ こ藤枝に乗り込みで事業を興して、ここまでその会社を成長させて頂いたその恩返しにと、「サッカーの街・藤枝」の復活を実現しようと、これまでチームを支 えてこられた富澤社長を知ったのもこの時でした。

2001年2月4日
  追伸.ホント久しぶりにこのページを更新させて頂きました。また暫く間があくと思います。ごめんなさい、本業第一1ですので。

                                    第7話

 ポスター貼りにビデオ撮影と、試合の追っかけを初めて5年、日本に遂にJと言うプロチームが誕生。私はかすかに燃え始めた希望の火を見つけ、この火を何 とか藤枝で煌々と燃え上がらせたい、そんな希望を抱き始めました。それもそのはず、この年J誕生で改組されたJ2で、チーム名に初めて藤枝の名をを冠した 「中央防犯ACM藤枝SC」が記念すべき初代チャンピオンとなったのです。試合のビデオを撮り続けてきました私も、この日ばかりは撮影にはなりませんでし た。カメラマンであることを忘れ、つい自分が試合に見入ってしまい、カメラはあらぬ方向を撮影。感動の岐阜・各務原の夕焼けは、今でもはっきりと覚えてお ります。そして、遂に93年、Jリーグ直下のJ1に参入。名も「藤枝ブルックス」となったのです。しかしながら、永く藤枝東高校の全国制覇や志太クラブ、 西益津中学の全国的な活躍に慣らされてしまったのか、藤枝市民の反応は相変わらず鈍く、観客も以前よりは増えたものの、とてもJリーグには何百分の一にも 及ばない状態でした。しかも、やはりJ1の壁は厚く、藤枝ブルックスも開幕3連敗を喫してしまったのです。そして、迎えた柏レイソル戦の焼津市営陸上競技 場。なんと、ピッコリ(現アビスパ福岡監督)のPK・Vゴールで快勝、地元・藤枝は沸き上がりました。そして、その翌々節のホーム・サンガ戦での2勝目を 機に、私は何とかこのチームの応援を増やしたく、当時サッカースクールのご父兄でしたAさんにご協力頂き、「ランカーFC父母の会」の名で「ランカーしん ぶん」を発行したのです。ポスターだけではこのチームの知ってもらえない。ならば、当時本業の学習塾で毎月新聞を発行していた経験から、自分にできること はやはりこれしかないと、今もお取り引き頂いております印刷所に頼んで、1000部6000円で、ワープロ版下に自分で撮った写真を入れた創刊号(B4ペ ラ両面印刷)を発行し、近くの書店やコンビニに置いて貰ったのです。これが予想外に反響を産み、2号目からは早速広告スポンサーが現れ、以後翌94年4月 まで「ランカーしんぶん」として通算11号を発行させて頂きました。試合の時はチアホーン片手にホームビデオで試合を撮影。それを元に仕事の合間の数日 間、半ば徹夜に近い状態での作業をしながら、「大変でしたね。」なんて言われましたが、いいえ、本当に楽しく作らせて頂きました。

2001年2月8日
アット・ニフティ、サッカーフォーラム・J1アビスパ福岡の会議室をご覧下さい。「ヒゲグマ」のハンドルで掲載しております。

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